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ソニック・ユース( Sonic Youth )



アルバムリスト
歌手の紹介


ソニック・ユース (Sonic Youth) は、1981年に結成された、ニューヨーク出身のバンド。

1980年代以降におけるアメリカのインディーシーンにおいて、ノイズパンクの雄として君臨。後のグランジ、オルタナティヴ・ロックムーヴメントへ大きな影響を与え、自身らも満を持してメジャーへと移行。以後、メジャーとインディーを行き来しつつ、活動を続けている。

メンバー

サーストン・ムーア(ギター、ボーカル)
バンドの実質的リーダー。大学教授の息子である。身の丈2m近い(198cm)大男。フェンダーのジャズマスターを好んで使う。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第34位、2011年の改訂版では第99位。

キム・ゴードン(ベース、ギター、ボーカル)
カリフォルニア大学ロサンゼルス校卒。自身のバンド、フリー・キトゥンでも作品を発表している。幼少時代、サーフィンをして遊ぶなど、活発な子供であった。音楽活動のほかにファッションブランド「x-girl」の立ち上げ時のデザイナーを務めた経験もある。
2015年、自伝『Girl in a Band: A Memoir』を出版、同年、その日本語版『GIRL IN A BAND キム・ゴードン自伝』(DU BOOOKS)も刊行された。

リー・ラナルド(ギター、ボーカル)
低い声が特徴。名門と名高いニューヨーク州立大学ビンガムトン校卒。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第61位、2011年の改訂版では削除された。

スティーヴ・シェリー(ドラム)
キャット・パワー等を輩出した名門インディレーベル、'Smells Like Records'を主宰。子供の頃からのアイドルとして、リンゴ・スターの名を挙げており、自身のドラムスタイルも多大な影響を受けている。

マーク・イボルド(ベース)
ペイヴメント、フリー・キトゥンのベーシスト。2006年の『ラザー・リップト』ツアーから加入。

過去のメンバー

ジム・オルーク(道楽)
2002年から参加。『ソニック・ナース』日本盤発売の際には担当パート「道楽」として紹介される。実際にはベース、ギター、シンセサイザーなど幅広く担当し、ミキシングも手がけた。
2005年、映画音楽やソロ活動に携わる為に一時的にバンドを離脱.以降ジャンルを問わないマルチプレイヤーとして第一線で活動中。

リチャード・エドソン(ドラム)
映画俳優になるため1982年に脱退。俳優としては『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『プラトーン』『ドゥ・ザ・ライトシング』などに出演。

ボブ・バート(ドラム)
1982-1984年まで在籍。その後ジョン・スペンサー率いるプッシー・ガロアに加入。

バンドとしては、ボーカリストが3人もいる変則的なスタイル。サーストン・ムーアとキム・ゴードンはおしどり夫婦で有名であったが、2011年10月に27年の結婚生活を終え離婚。一人娘の「ココ」がいる。ココは、ダイナソーJr.のアルバム'Beyond'に収録されている'Been There All The Time'という曲のPVで、父と共演している。
概要

1970年代後半から活動を開始する。

現代音楽家グレン・ブランカが主宰するギター・オーケストレーションのグループで、サーストン・ムーアとリー・ラナルドが出会い、サーストンの彼女のキムを誘い、ソニックユースの原型が誕生した。ドラムにはあまり恵まれず、実力不足で何回か交代している。

グループ名は、元MC5のギタリスト、フレッド “ソニック” スミス(パティ・スミスの亡き夫)が好きだったのと、サーストンが好きなレゲエのアーティストに“ユース”という言葉の付いた者が多かったので思いついた名前。本人曰く、あまり意味は無いらしい。バンド名を変えてアルバムを出すことも多かったことから、それほどバンド名に執着は無い様子でもある。

ジャンルとしては、ノイズロック、グランジ、オルタナに分類される(ときおり日本独自のジャンル分けとしてボアダムスらとともに「ジャンク」とも呼ばれることがあったが、サーストンは嫌っていた)。サーストン・ムーアは「エレキ・ギターを聴くということはノイズを聞くこと」との持論があり、ギターノイズだけの曲、ポエトリー・リーディングのような曲など、実験的な曲も多い。自分でオリジナルのコードを考えたり変則的チューニングを多用する。

当初アメリカでは人気が出ず、ニュー・ウェイヴが全盛期だったイギリスを始めとするヨーロッパで評価された。イギリスではパブリック・イメージ・リミテッドのツアーの前座として活動していた。長年インディーズ・レーベルで活動。1988年発表のアルバム『デイドリーム・ネイション』が傑作と評され、バンドはメジャーのDGCレコード(当時ゲフィン・レコード傘下、2011年現在はインタースコープ・レコード傘下)と契約を果たす。自分達がメジャーシーンに移行することで、オルタナシーン全体の過小評価を覆したいとの思いが強かった。実験的な楽曲が多く、その音楽性には高い評価があるものの、セールス面との対比から「無冠の帝王」などと揶揄されることもあった。

2006年の『ラザー・リップト』のリリースをもって、インタースコープとの契約が満了したが、バンドはその後マタドール・レコードと契約して(日本のみホステス・エンタテインメントと契約)再びインディーズに戻った。2009年、移籍第1作となる『ジ・エターナル』をリリースした。


交流

ソニック・ユースを尊敬している、または親交のあるバンド、メンバーに曲のプロデュースを手伝ってもらったバンドは非常に多い。特に、アンダーグラウンドのバンドやアートスクール系のバンドが多い。

メンバーであるスティーブ・シェリーは、自主レーベル、スメルズ・ライク・レコードを運営するなど、アンダー・グラウンドへ目を向け、有能なアーティストをオーバー・グラウンドへ紹介することもしばしばあり「ソニック・ユースがお気に入りにあげている」といった冠詞はよく目にするものである。ニルヴァーナやダイナソーJr.といったバンドも、ソニック・ユースに見初められたバンドである。

日本のバンドでは、ボアダムス、少年ナイフ、灰野敬二らと親交がある。
その他

サーストンによると、半分以上の曲で、ギターは変則チューニングを使っている。実際、多くの曲はレギュラーチューニングでコピーすることは難しい。
キムについて歌ったレイプマンの'Kim Gordon's Panties'と言う曲がある(なお、レイプマンとのスプリット・ギグ時に、彼らがこの曲を演奏したことにサーストンが激怒し、後でボーカルのスティーヴ・アルビニをボコボコにした、という真偽不明のエピソードもある)。

ディスコグラフィー
スタジオアルバム

コンフュージョン・イズ・セックス - Confusion Is Sex(1983年)
バッド・ムーン・ライジング - Bad Moon Rising(1985年)
EVOL - EVOL(1986年)
シスター - Sister(1987年)
デイドリーム・ネイション - Daydream Nation(1988年)
GOO - GOO(1990年)メジャーのゲフィン移籍第一弾
ダーティ - Dirty(1992年)ジャケットはマイク・ケリーの作品より。
エクスペリメンタル・ジェット・セット、トラッシュ・アンド・ノー・スター - Experimental Jet Set, Trash & No Star(1994年)
ウォッシング・マシーン - Washing Machine(1995年)
ア・サウザンド・リーヴズ - A Thousand Leaves(1998年)
SYR4・グッバイ・20th・センチュリー - SYR4 Goodbye 20th Century (1999)
NYC ゴースツ&フラワーズ - NYC Ghosts & Flowers NYC(2000年)
ムーレイ・ストリート - Murray Street(2002年)
ソニック・ナース - Sonic Nurse(2004年)
ラザー・リップト - Rather Ripped(2006年)
ジ・エターナル - The Eternal(2009年)

コンピレーション

メイド・イン・USA - MADE IN USA (1995年)
スクリーミング・フィールズ・オブ・ソニック・ラヴ - Screaming Fields Of Sonic Love(1995年)
ザ・デストロイド・ルーム・Bサイド・アンド・レアリティーズ - The Destroyed Room: B-sides and Rarities (2006年)

EP

ソニック・ユース - Sonic Youth (1982年)
キル・ユア・アイドルズ - Kill Yr Idols(1993年)
TV・シット - TV Shit(1993年)
SYR1 - SYR1: Anagrama(1997年)
SYR2 - SYR2: Slaapkamers Met Slagroom(1997年)
SYR3 - SYR3: Invito Al Ĉielo(1997年)
シルヴァー・セッション・フォー・ジェイソン・クヌース - Silver Session for Jason Knuth(1998年)
SYR6 - SYR6: Koncertas Stan Brakhage Prisiminimui(2005年)